高森明勅
帝国憲法と「主権」
帝国憲法では(現憲法の国民主権に対し)「天皇主権」だった、 との説明をよく見かける。
だが、帝国憲法下では「天皇機関説」が通説で、 実際の運用もそれに立脚していた。
そうであれば「天皇主権」であったはずがない。
例えば、次のような指摘がある。 「帝国憲法の下では誰が主権者であったのか。 現在では、憲法学者、政治学者でさえ、帝国憲法の主権者は 天皇であったと説き、民主主義に反するものだと主張する者が多いが、 果たしてそうであろうか。
かつて(帝国憲法下で)日本の憲法学者は二派にわかれて 論争したのであるが、一方を主体説といい他方を機関説と呼んだ。 前者は、天皇は主権者であると主張する一派であって、穂積八束 (ほづみやつか)、上杉慎吉(うえすぎしんきち)、松本重敏、 沢田五郎等、少数の学者の支持するところであって、大多数の進歩的学者は、 天皇は主権者ではない、主権者は『国』であって、 天皇は主権者たる国の最高機関である、と主張したのである。
…(天皇を主権の主体とする)学説は、明治末年、美濃部(達吉)、上杉(慎吉) 両博士を中心とする一大論争の結果、学理的に敗れ、 わずかに余喘(よぜん=死ぬ間際の今にも絶えそうな息) を保ったに過ぎぬ。 それが満州事変以後のファシズム台頭の時流に乗って、 昭和10年に(天皇)機関説事件を起こし、 ほとんど暴力と大差なき権力によって機関説が国禁の邪説とされ、 爾来(じらい)、天皇主権説が大手を振って通ることになったが、 それは、あくまで政治と御用学説の支配であって、断じて、 帝国憲法そのものが天皇主権であったことではない。…これは法理である」 (里見岸雄『天皇とは何か』)と。 天皇機関説が表面上は政治的に排除されたように 見えていた時期でも、実務での対処は同説によって行われていた。
だから終戦時、ポツダム宣言の受諾を昭和天皇の「聖断」に頼った 異例・非常の場面でさえ、御前会議の後に“改めて”正式な閣議が開かれている。
「天皇主権」なら説明がつかない手順だろう。