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執筆者の写真高森明勅

天皇陛下の最後のお出ましを迎えた福島の声

日本協議会・日本青年協議会の機関誌 『祖国と青年』7月号が届いた。

天皇・皇后両陛下の6月9日から11日にかけての

福島へのお出ましを取り上げた記事がいくつかあった。

両陛下をお迎えしたいわき市の

清水敏男市長のインタビューから。

「(10日の植樹祭の会場の南相馬市から

約80キロも離れたいわき市に両陛下がわざわざ

前日の9日に訪れられた理由は)東日本大震災後、

両陛下の福島ご訪問は今回で6回目になりますが、

これまで(その6回の中で)いわき市にお越しいただいた

ことはありませんでした。

また、福島第1原発の事故で避難されている方々を

一番多く受け入れているのがいわき市です。

その避難されている方々の声を聞きたいという

お気持ちもあられてのことだと思います」

「両陛下は(被災者約450人が暮らす復興公営住宅

「北好間〔きたよしま〕団地」の)集会所で

(富岡町・大熊町・双葉町・浪江町から避難した)

入居者の方々と懇談される前に、入居する被災者が

二列に並んでお出迎えしているところで足を止められました。

二列に並んでいるのにも関わらず、

一人ひとりに声をかけていかれるのですね。

そのお姿が目に焼きついています」

「(集会所で)一人ひとりが話している時に、

両陛下が身を乗り出すようにして一所懸命聞こうとされる、

そのご姿勢に心打たれました」

「(いわき市から植樹祭会場に向かわれる際に

福島第1原発を望む常磐道〔じょうばんどう〕を

通られたのは)やはりご自身の目でご覧になりたい

というお気持ちのあらわれなのだと思います。

…例えば、田んぼにしても荒れていて、稲穂がない

…まだまだ復興していない。

そういう景色をご覧になって、

お心を痛められたのではないかと思います」

福島県議会の吉田栄光議長のインタビューから。

「福島県の津波の犠牲者は約二千名で、

まだ見つかっていない人もいます。

本来であれば犠牲になった人たちを弔わなければ

ならないのでのですが、あの原発事故でしっかりとした

形で弔うことができなかったことが、一番の心残りです。

生きていたかもしれない、しかし捜索もできないーー

そういう人たちを残して避難しなければいけないという

ことが一番つらかった」

「避難先の窮状も言葉で言い尽くせないものがあります。

そういうことを、被災した人たちはまだまだ整理できていません。

生涯できないことなのかもしれませんが、

7年3ヶ月でようやく少しずつ気持ちを前向きに

持てるようになったーーそのような時に両陛下に

お越しいただき、大変ありがたく思っております」

「両陛下が東京にお帰りになる際、

駅長室で知事や警察本部長と一緒に

お見送りさせていただきましたが、両陛下から

『(吉田氏の地元の)浪江(の復興)、

がんばってくださいね』

とお言葉をいただき、涙が出ました。

この7年3ヶ月、本当に大変でしたが、

知事を先頭に、今まで以上に復興を進めなければ

いけないと思いました」

「両陛下から『子供たちが早く帰ってきてくれて、

復興が進むといいですね』というお言葉もいただきました。

子供たちが安心して暮らせる福島を築き上げることが、

両陛下の一番の願いであり、それはまた、 私たち県民の一番の願いでもあります」

「今回の両陛下のご訪問は、全ての県民が自身の

7年3ヶ月を振り返り、福島県の復興や創生に

今まで以上に関心を持つ大きな契機となったのでは

ないでしょうか」ー

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