大嘗祭の民衆的「逸脱」

​更新日:2019年9月22日

大嘗祭の民衆的「逸脱」

大嘗祭は多分に「民衆」的な祭儀だった。その為に、逸脱的な場面も見られた。神事当日、平安京の北側の斎場から内裏の朝堂院まで、悠紀・主基両国の在地の民衆が自分らの供え物を運び込む大行列。

 

その中に、車輪の付いた「標(ひょう)の山」が曳(ひ)かれていた。それは、戦国時代に入って大嘗祭が一旦、中断する直前の、第103代・後土御門(ごつちみかど)天皇の時まで確認できる。貞観(じょうがん)『儀式』の記述を手掛かりにすると、その高さは10メール程だったと推測できる。現在の感覚でもかなり高い。当時の人々にとっては更に高く感じただろう。貴族の日記を見ると、この行列を見物する為に桟敷(さじき)まで設けられていた。その桟敷では上皇や女院(にょいん)などが見物していた。摂政なども最高級の牛車(ぎっしゃ)である唐車(からぐるま)で出掛けて来る(『台記〔たいき〕』)。

さしもの都大路も、見物の貴族らの牛車や馬、又役人や住民などで隙間も無い有り様だったという(『中右記〔ちゅうゆうき〕』)。

 

悠紀・主基両地方の民衆には人生最大の晴れ舞台だ。だから「標の山」も思いっきり華美に飾り付けた。恐らく、それが行き過ぎた為だろう、朝廷側で過度の飾り物を禁止した形跡がある(『日本紀略〔にほんきりゃく〕』)。

 

しかし、人々は一先ずそれに従っても、すぐに又「標の山」を賑やかに飾り立てた。ばかりか、両地方の「標の山」の曳き夫が競い合い、「奔走」する事にもあった(『江記〔ごうき〕』)。だから、折角の供え物まで途中で紛失したり、損なったりという、言語道断な事態にまでなった(その背景には多く見物人らのやんやの大喝采があったはずだ)。そんな不始末も少なくなかったらしい。

 

『兵範記(へいはんき)』に以下のような記事がある。第80代・高倉天皇の大嘗祭の時は、役人がしっかり見張ったので、大行列の供え物を何一つ「紛失」しなかった。「今度(このたび)は未曾有(みぞう)なり」と。その頃の貴族の日記の表現はしばしば大袈裟。なので、「未曾有」という表現も額面通りには受け取れない。それでも随分、行き過ぎがあったのは事実だろう。

 

このような逸脱行為は、現代の潔癖主義的な感覚からすれば、俄(にわか)に信じがたい非礼・不敬の極みかも知れない。しかし、そんな“悪ノリ”的な場面も含めて、「標の山」行列は上皇や貴族、一般の庶民に至るまで、実に楽しみなビッグ・イベントだったに違いない。

 

標の山を早く曳き終えてしまったので見物に間に合わなかった貴族が、それを悔しがった記録も残っている(『中右記』)。そもそも祭祀が真に生命力を備える為には、日常の秩序を“逸脱”する「祝祭」的要素と、平素の秩序を極限まで“厳格化”する「祭儀」的要素という、正反対のベクトルを抱えた両者を、共に必要とする。

 

その観点からは、夜中の天皇の神事が、まさに神聖かつ厳粛この上ない「祭儀」であるのに対し、その前段における標の山行列は、極めて大掛かりな「祝祭」だったと言えるのではないか。

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