昭和天皇の「女官制度」改革

​更新日:2018年09月10日

昭和天皇の「女官制度」改革

 

明治の皇室典範では「庶出(非嫡出)子孫にも皇位継承資格を認めていた。

しかし、昭和天皇はそれを事実上、無効にする女官制度の改革を断行された。

側室制度を廃止されたのだ。

 

「女官には公的な『お役女官』と、(男系男子の) 皇嗣(こうし)を絶やさないために側室を務める『オソバサン(お后〔きさき〕女官)』がいた。御側(おそば)女官は権典侍(ごんのてんじ)で、公(おおやけ)の場所にはいっさい出なかった」

 

「こうした…女官制度に、若い皇太子(後の昭和天皇)は反発した。大正11年(1922)1月28日、牧野(伸顕)宮相(宮内大臣) は皇太子に呼ばれた。『殿下仰せに、自分の結婚も其(その)内行う事とならんが、 夫(そ)れに付(つき)特に話して置き度(た)く考うるは女官の問題なり、 現在の通り、勤務者が奥に住み込む事は全部之(これ)を 廃止し日勤する事に改めたし』(『牧野伸顕日記』同日条)

 

…女官を日勤制にし、朝夕のことは女中(じょちゅう)任せにしてはどうかと、日頃考えてきたことを整然と語った。 旧慣にズバリと挑戦したのである」

「女官制度の改革については、結婚のころまでになんとか形ができあがった。…最大のものは、女官を既婚の女性とし、側室制度を宮中から追放したことだ。大正天皇のときも『お控え』はいたが、皇后の監視が厳しかったという話もある。昭和元年(1926)12月31日の『東京朝日新聞』には、 『廃止に決定した宮中大奥の制度…新帝の畏(かしこ)き思召(おぼしめ)し』とある」(高橋紘氏『人間昭和天皇』上巻)

 

現在の価値観で過去の制度を批判するつもりはない。

 

だが、現在および予想し得る将来において、側室制度を復活させたり、皇室典範を改正して非嫡出子孫にも 皇位の継承資格を認めたりする事は、およそ想像し難い。

 

なお、9月9日のブログ「側室の実態」に「皇“居”の居住区域」とあるのは勿論「皇“后”の居住区域」の誤り。

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